上杉謙信、景勝の二代に渡って長尾上杉家に仕えた武将。
御館の乱以降から台頭を表し、特に北の関ヶ原と言われる慶長出羽合戦や大坂冬の陣で鉄砲隊を使った戦術により活躍している。
また、逸話も多く残されており、その人柄に惹かれる者が多い。
生誕: 天文15年(1546年)(平姓水原氏系譜)
死没:元和2年(1616年)5月13日(鶴城叢談・上杉家御年譜 御家中諸士略系譜)
または元和2年5月22日(水原親憲伝)
※没年月日については上記の三つに記載されており、没年から生年を差し引けば70歳での往生となるが、71歳、72歳、80歳、83歳などどの史料においても没時の年齢は定まっていない。
戒名:大雄院殿恩室謙重居士(平姓水原氏系譜)
初めは弥七と称し、その後常陸介という受領名を授与している。
父親:大関阿波守
(名前については三種類ぐらい伝えられている)
母親:不明
ただ、「水原氏の研究」によれば、父親である大関阿波守が深夜の荒野を歩いている時火葬場の火で鉄漿を温めて歯に塗っている女を見つけ、その豪胆さに惹かれ妻としたという伝記が残っており、その女は近くの村の者であったという。
伝承としては面白いが、一当主たる大関阿波守が平民の娘を妻とするのはどうもひっかかる。
●生誕~
浦佐城で生まれたとも、越中で生まれたとも、関東から越後に来たとも言われており、幼少期や青年期の記録は残っていない。
1561年の第四次川中島合戦に参加したとされているが、軍記物でもその名は出ておらず、正確に彼が登場するのは天正6年の御館の乱である。
●天正6~8年頃
御館の乱にて景勝側に味方し、大場口の戦いにて勝利を収めたという。 また、春日山城に攻めてきた三郎方を追い返すなどしているらしい。(軍記物や伝記物でのみ記載)
また、上杉家御年譜の諸士系譜によるとこの頃親憲は景勝の勘気に触れ、一時芦名家へ出奔していたという。
天正8年に芦名家と上杉家との親睦のために取次を行っていることからも、出奔説もあながち嘘ではないのかもしれない。
●天正9年~天正14年
景勝が御館の乱に勝利し家督を継承すると、その論功行賞に不満を持った揚北衆の新発田重家が織田・芦名と手を組み反乱、また、越中方面からは武田を滅ぼした織田が侵攻してきたため、親憲は松倉城にて魚津城の監視及び周囲の普請を命じられた。天正11年にはその軍功として寺嶋民部の所領を知行されている。
一方、天正10年に本能寺の変で織田方が退却すると、上杉は新発田重家の制圧に本腰を入れる。
新発田の乱での親憲の動向は見えず、天正11年に放生橋の戦いで水原満家が殿を務め戦死したため、天正14年にその名代を継ぐことになった。ここで初めて「水原親憲」と名乗る。
●天正17年~慶長2年
内乱後は佐渡攻め、小田原攻め、朝鮮出兵とイベントが立て続けに起こるが、残念ながら親憲が参加したという記録は残っていない。(当方調べ) 彼が次に一次資料に顔を出すのは会津移封である。
●慶長3年~慶長6年
彼は当初福島城主に命ぜられ、城代になるとすぐに伊達からの侵攻があったという(ただしこれも軍記物でのみ記載)
これを空城の計をもって撃退し景勝に注進したところ、猪苗代城代の今井源左衛門尉が亡くなった事も相まって親憲は猪苗代城代に命じられ、福島城には本庄越前守繁長が入った。 その後国内の覇権が西軍か東軍かで二分される頃、上杉では最上征伐を実施。親憲はこれに戦奉行として従軍し、会津陣物語などの軍記物ではこの折総大将である直江山城守兼続と何度か衝突しているようである。
最上征伐において最も激戦であった長谷堂城の戦いの最中、上杉方は西軍敗北を聞いて撤退を開始。親憲は殿を務め鉄砲隊を率い、率先して先陣に立っていた最上義光の兜に鉄砲を当てたという。(現存する義光の兜にも鉄砲玉の痕あり)
●慶長7年
東軍の勝利が決まった事で上杉家は徳川家に対し謝罪をし、結果的に上杉家は米沢30万石に減封となった。
会津120万石から米沢30万石の大減俸によりその整理は大変なものとなり、親憲は会津三奉行の内の二人、安田能元・岩井信能と共にこの移封の奉行に任命された。(会津移封の時の奉行を会津三奉行と言い、安田能元・岩井信能・大石綱元がこれに任命されたが、会津移封後大石が死去したため、親憲が後任として会津三奉行の一人に命じられたようだ)
彼らは景勝・兼続の指示の元、制令の制定や宅地の整理などを行い、その使命を全うした。
●慶長19年~元和元年
その後時代は流れ、最後の大戦となったのは大坂の陣である。
大坂冬の陣に親憲も出陣、鴫野の戦いにおいて第3陣を担当した。戦闘が開始されると、上杉方約5000に対し豊臣方約2000のため、上杉が有利に戦を展開するも、豊臣方から12000の援軍が来襲したため第1陣の須田が崩れ、2陣の安田も崩れた。その時親憲が大声で「左右にどいて道を拓け!」と叫び、味方がそのようにすると、親憲は敵を十分に引きつけて一斉射撃、浮足立った敵陣を見た安田が横から突き、形勢逆転したという。
またその後、鴫野の北で行われていた今福の戦いに援軍として参加、ここでも鉄砲隊を率いて活躍し、勝利を収めた。
親憲はこの戦いの軍功として徳川秀忠より感状をいただき、黄金十枚(二十枚と記載しているものもある)を拝領した。
●元和2年
大坂の陣の翌年の2月下旬、景勝は家康の病気見舞いに駿河に向かい、5月に米沢に帰着した。
その帰着の際親憲は景勝の迎えに板谷峠へ出向いたが、景勝を待っている間、同行していた若衆たちに、老後の名残にと馬で駆け回り松の枝を薙ぎ切ったりするなどして昔の武勇を演じてみせたところ、「その勢い万夫不当の勇士である」と皆から褒め称えられた。そんなところに、景勝一行がやってきたので親憲はその場で平伏し、景勝が親憲に声をかけたが彼は応えなかった。郎等が声を掛け体をゆすると、彼はもう息絶えていたという。
そんな中景勝が「常陸の懐中を見よ」と言い、彼の懐を確認するとそこには麺粉が入っていた。麺粉は戦場での大事な食糧となるが、平和な世になってもまだいついかなる時でも戦場に出られるよう準備をしている彼こそ、まさに戦国の人であると皆思っただろう。