ここでは個人的に発見した逸話を紹介しています。原文ではなく自分で訳したものなので、
訳間違いなどありましたら申し訳ありません。
ぜひ一度、出典から原文(?)をご覧になって下さいませ!
<外見について>
■背が高く、鴨居に額をぶつけるほどだったという。顔も大きく馬面で、特に目立つのは顔中にある黒大豆のような黒子であったという。
ほかには、左目の下に痣がありそこから長い毛が一茎生えている、という伝承もある。
また、親憲を頼って屋敷に出入した人によれば「あのような異相は絵の中でしか見たことがない。まるで弁慶である」とのことなので、なかなか個性的な顔立ちをしていたようだ。 (鶴城叢談・米沢里人談・杉原親憲傳)
<性格について>
■大身小身関係なく人と交わり、主君の用に立つべき人へは礼儀を通し、小身な侍へは恩信を通して奉公できるよう手助けをし、足軽より下の者まで言葉をかけるなどして慇懃に交わった。
そのため戦場では兵は親憲を下知をよく守り、親憲はまるで手足を動かすかのように軍を動かすことができた、大将の器である。(上杉将士書上、謙信記、鶴城叢談)
■酒宴のおりには、親憲は顔に紅白粉を塗り赤い頭巾を被って棕梠箒に紙を手でちぎったもの掲げて、隣の間より景勝の前へ舞い出て氷室の舞などを舞い、景勝も興に入ることがしばしばあったという。(上杉将士書上)
■馬に乗って道を行く時にも、下人と話をして大笑いしながら通行する事があったという。(上杉将士書上)
■親憲の忠勇智謀は群を出るのみならず、詩歌にも精通していた。度々詩歌の会を催す時は親憲の家で行ったという。(鶴城叢談)
<出来事について>
■ある時親憲は景勝の癪に触ったため、牢人して会津に出奔したことがあった。(上杉家御年譜では14,15歳の頃修行の為の出奔としている)
芦名氏家臣の長沼城代新田上総介に奉公し、親憲が越後に帰り、芦名が没落した後は逆に新田上総介の子が親憲を頼って越後に来たという。(上杉将士書上、上杉家御年譜)
■伏見普請の折、直江兼続と水原親憲とで意見が分かれ口論となった時に、兼続が親憲を殴った。
これに親憲は大層腹を立てたが、見物人が多かったことから、「ここで騒げば国の災いを起こす事になるかもしれない」とその場は我慢して持ち場に戻った。しかし夜になっても怒りは収まらず、「明日兼続を殺して自分も死のう」と決意し、今生の別れを告げに本庄繁長の元を訪れた。繁長はこれを聞いて親憲を諭し、彼と共に兼続の元へ行くことに。
兼続の元に行くと、彼はすぐに頭を下げ、「常陸殿は豪傑の士である。あの時そんな常陸殿を殴り、常陸殿が黙って退いてくれれば、人夫達が不満を言うことはないと考えてあのようなことをした。常陸殿なら、この真意を汲み取って黙って退いてくれると思った。だから、私は今貴方に殴られても仕方がないし、私の罪も少しは償えるだろう。申し訳なかった」と、昼の非礼を謝罪した。
これを聞いた親憲はすぐに機嫌を直し、自分の宿場へ戻ったという。(鶴城叢談)
■ 慶長19年、大坂の陣の出立において、親憲は大変苦悩していた。
全国の名だたる大名家が上方へ出向くということは、各々にその家の風格を示す機会にもなるという事になる。つまり上杉家に見合うだけの装束を心がけねばならぬのだが、親憲には先祖相伝の具足、一領しかもっていなかった。といっても元々田舎なので新しい具足を買っても京で手に入るような絢爛なものは手に入らないし自分には似合わないと判断し、いつもの具足の上に猿楽の装束能法被を着て出立したところ、これを見た徳川家康は「さすが上杉は古くからの家なだけはある、常陸殿の武具立はとても見事だ。紺地の錦の鎧直垂を着ている。皆も後学として見ておくように」と周りの者に命じたという。(上杉将士書上)
■上記の甲冑の話について、全く逆の逸話も存在するので紹介しておく。(米澤雑事記・管窺武鑑・鶴城叢談)
慶長19年12月10日、杉原常陸は異相の者でかつ武具立も華やかなものであるという噂を聞いた徳川家康が急に上杉の陣を訪問し、親憲を訪ねた。(親憲の武者震いを見たいという理由だったとも)急な訪問だったため、親憲は甲冑のまま家康の元に登場したが、緋縅の鎧(萌黄威の鎧とも)に赤地の錦の直垂を着て、その姿で動く様は人々を驚かせるほどのものだったという。その姿を見た家康は「貴公は無双の勇士だと聞いている。とても頼りにしているぞ」と感じ入り、更にこの時親憲に年齢を聞いた。親憲は家康と同い年だったが、わざと二つ上の年を伝えた。それを聞いた家康は自分より2歳年上だと答え、「この度の戦いを見て、私もあと2,3年は同じように戦えるな」とご機嫌になった。更に「常陸は六十をはるかに超え白髪の老武者であり、萌黄威の鎧に金作りの太刀佩いて、赤字の錦の直垂に似た金襴の羽織を著ている姿は、まさに昔の実盛を見ているようだ。今度の常陸の働きは実盛に遥かに勝っている」と微笑されたという。
(家康は天文11年生まれ、親憲は天文15年と言われている(ただし、管窺武鑑では親憲を天文12年生まれとしているようだ))
■大坂の陣における戦功により、親憲は徳川より感状を賜ることになった。
親憲は感状を授与されたその場で包みを開封、将軍の前で感状の内容を拝見した。これは当時においては非常に無礼な事であったが、親憲はその場にいた本多正信に向かって「非常に吟味された文章で、痛み入ります」と言ってその場を退出した。その様子を見てそこにいた人々も感じ入り、家康も「謙信以来、弓箭の面影が残っているようだ」と語ったという。
その後、親憲は「この度は思いもよらず感状を賜り、子孫への宝になった。今回の戦は子供の石当て合戦のようなものだったから怖くも骨を折る事もなかった。昔、関東出兵や越後にて今日死ぬか明日死ぬかという戦に明け暮れていたが感状を貰った事など一度もなかった。それなのに今回は花見のような戦で感状をいただけるとは」と人に語り、大笑いしたという。(名将言行録)
<死去後について>
■親憲の墓石はその武勇にあやかり、瘧(マラリア)に効くとしてよく削られたそうだ。(米澤雑事記)
現在米沢林泉寺にある彼の墓石はほぼ全て削り取られ、おそらく万年塔の最上部だけが残った状態となっている。(石の屋根の中の丸い石がそれ)
なぜ瘧に効くのかといえば、彼の武者震いの逸話からそのように伝えられたのだという。(瘧は悪寒や震えを起こす病気の為?)